2006年11月06日

[コラム]自由国家への回帰を冀うIT世代

民主主義国家の歴史を省みる

自由国家の時代
今の民主主義の体制は市民革命によって生まれたのだが、当初の民主主義は所謂自由国家或いは消極国家・夜警国家というもので、国民一人一人の実力だけで支えられた自由主義(というより実力主義)の世界であった。当然、斯様な実力主義の世界では必ず「勝ち組」と「負け組」に二分極化され、貧富の差が固定化され、「負け組」は永遠にそこから抜けることのできない世の中となってしまった。
社会国家の時代
このような貧富の差(格差)を解消するべく、国家が国民経済に積極的に介入する政治形態が作られた。これを社会国家或いは積極国家・福祉国家というもので、実力ある国民が実力なき国民を政治を通じて救うというのが目的となる。つまり、国民一人一人が努力したらしただけの結果を得られるのではなく、その努力の結果を結果の出せなかった国民に対して再配分する役割を政治が担うという体制になったのである。これにより、政治の行政に対する役割は増大され、行政府の中心にいる官僚たちがその調整役として六面八臂の活躍をし、所謂「役人天国」が形成されるに至った。
因みに、今はこの社会国家(福祉国家)の時代とされる。

小さな政府を作ろうとした小泉純一郎とIT世代

小泉前首相は郵政民営化を始め、本気で、「小さな政府」を実現しようとした。政治化の公約はあってないようなものといわれがちだが、この点、小泉前首相は公約の内容の是非はともかく、誠実に忠実に実行しようとしたことは評価に値する。
しかし、その結果、格差の拡大が懸念視されるようになり、新たな社会不安を巻き起こしているが、それにもかかわらず、昨年9月11日の総選挙で自民党が圧倒的多数を獲得した。これには色々な要因が絡んでいるが、積極的理由の1つにIT業界人と小泉前首相の考え方が極めて類似しているということがある。

自覚と積極性なき者を亡き者にすることを躊躇わないIT業界人

別にホリエモンのような人に限らず、所謂IT業界人は積極国家を嫌う傾向がある。それは、IT業界の中でよく伸びる企業或いは業界人は自覚と積極性を兼ね備えた連中ばかりで、よく努力をする連中だからである。努力してもその取り分がそうでない連中に回ることに対して、彼らが面白いと感じる訳がない。そうなると、社会国家或いは福祉国家という一種結果平等を謳った今の国家体制を嫌うのは論を待たない。彼らは自分たちのように自覚と積極性なき者を亡き者にすることさえいとわない冷酷さを持っているのである。つまり、IT業界の中は弱肉強食であるばかりか、自覚と積極性のない人間に対して冷たい扱いをすることが正義であるとさえ信じて疑っていない。

人を大切にしないIT業界人の考え方が他業界にも波及している

リストラ(リコンストラクション)の和訳は再構築であるが、現実は人材の切り捨てである。人件費カットの名目で、まるで次々と人を断頭台に送り込むように人材を切り捨てている。これはバブルの時期に調子に乗って、人材を過剰に採ったツケでもあるが、人材を採りながらも育てようとしなかった企業の責任回避とも言える。
確かに、人材の教育はお金がかかるし、目先の生産性向上には繋がらない。よって、教育をしなければ育たないような人材(つまり、自覚と積極性のない人材)は欲しがらない。この辺の考えはIT業界ほど露骨であるが、今の不景気のせいで今やどこの業界も似たり寄ったりである。

夜警国家への回帰を願うIT業界人

社会国家においては富の再配分が正しいとされる。それは格差を固定化させず、いつでも敗者復活ができるように「負け組」に対して施しを与えようとするものであり、決して、貧乏人の「たかり行為」ではない。ところが、自覚と積極性を兼ね備えた努力家のIT業界人はそれを自分たちの富を簒奪する悪と決め付け、それを否定することに躍起になり、自覚と積極性を持たない人間をどんどん否定する。そこに一切の慈悲の感情はなく、自分の実力が即座に自分のリターンに反映されるような社会を望んでいる。これでは昔の夜警国家への回帰を望んでいるようなものである。
そもそも、自覚と積極性を持たない人間とて、大切にされれば、やがて彼らもその恩義に応えようと、必死に働くようになる。寧ろ、元から自覚があって積極性のある人間は自我が強く、下っ端で働かせるには手に余る存在となるが、自覚と積極性を持たない人が働き出すと、非常に貴重な戦力になることを知るべきである。そうなれば、やがて彼らも自覚と積極性を持ち出すようになるだろう。

CSRというのが叫ばれているが

昨今、CSRという所謂企業の社会的貢献が叫ばれ、企業の側から積極国家的行動を採ろうとする動きがあるが、今一ピンと来ない。しかも、一番儲けている自覚と積極性のあるIT業界人ほどこのCSRに対して冷淡なのが戴けない。「負け組」への施しを厭う企業人から「負け組」を「勝ち組」に転化するべく施しを与えられる企業人こそがこれからの社会に必要な存在である。個人の自覚と積極性の自発的な開花を待つのは百年河清を俟つようなものである。これからは個人のデリケートな内面に干渉しない範囲で、個々の自覚を促せるような企業人こそ、福祉国家時代のエリート達に求められている資質ではなかろうか。
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 19:43| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月23日

[コラム]政治家は大変なんです!

木村剛氏のブログより

木村剛氏のブログには興味深い記事が幾つかあるのだが、この機会に1つ取り上げてみたいと思う。

伊達に収入高い訳ではない

政治家(特に国会議員)の収入は一般庶民の収入に比べて非常に高いと言われているが、よく考えてみると、選挙で当選しない限り、政治家としての仕事はできないし、当然収入も得られない。これを考えると、政治家としての身分を得、責務を果たすには、衆議院や地方自治体の選挙なら4年で、参議院なら6年で必ず選挙で有権者からの洗礼を受けないといけない大変な仕事である。倒産・リストラや自ら割って出るようなことがない限り身分と収入が保証されているサラリーマンとは訳が違う。

竹中平蔵氏が任期半ばで参議院議員を辞めたのは選挙戦が辛いから?

以前、竹中平蔵氏が小泉内閣総辞職に伴って参議院議員としての地位も擲ったことが話題になったが、元々学者だから選挙運動のようなことをするのが辛かったのかもしれない。とはいえ、選挙運動が辛いのならば、何も任期途中で辞める必要はなかった筈。そうなると、竹中氏辞職の原因は選挙運動が嫌だからということだけでは説明できない。
それにしても、政治家は定期的にマイクを持って声を張り上げなくてはならないのだから大変だ。私にはとても無理である。
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2006年06月04日

[コラム]村上ファンドはまるでオルフェノク

2006/5/20号の東洋経済にて

「徹底解明村上ファンド」と題して、村上ファンドの特集が組まれていた。主に阪神電鉄株取得の手法について書かれた記事であるが、村上ファンドの本質に迫ろうとしている意気込みを感じた。

特例をフル活用するという狡猾さは浅田満に通じる

記事の中で、村上ファンドは大量保有報告書の複雑怪奇な提出ルールを利用し、大量保有報告書を開示せずにどんどんステルス作戦で阪神電鉄株を買い進めていった。
こうした、ルールの隙をつくやり方は極めて狡猾で且つヤクザ的である。そういう意味において、村上ファンドは同和タブーを利用してのし上がった浅田満に通じるものがある。

昔だったら間違いなく総会屋にされていただろう

村上ファンドはこうした悪辣な手法を用いてまでも、大量買収→経営提案→撤退というサイクルを通じて、アコギに金を稼いでいる。しかも、買収方法にせよ、経営提案にせよ、極めて強引なものが目立つ。昔だったら、総会屋の一種として警戒されていただろう。外国でも、村上ファンドのような連中はゴマンといるのだが、そうした連中はグリーンメーラーと呼ばれ、一種の社会悪として認知されている。
因みに、村上ファンドみたいな「モノ言う株主」は昔からいた。糸山英太郎氏である。

糸山英太郎氏と村上世彰氏の違い

糸山英太郎氏も強引な買収と提案を行うような人物という意味では、村上世彰氏と変わりがないが、糸山英太郎氏と村上世彰氏との間において大きな差があるとすれば、それは志に尽きる。糸山英太郎氏は飽くまで自分の正義と威信に懸けて買収や提案を行う。つまり、強引でも一本筋が通っているのである。それ故、糸山氏が批判して止まない日本航空の社長など、糸山氏に頭を下げに行く始末である。
しかし、村上氏の方は世間からの反発が少なくない。糸山氏に比べてマスコミ露出が多いせいもあるが、村上氏の投資戦略は志というものが全く感じられない。投資戦略方針はあるが、村上氏は自らの行動を通して、何を変えたいのかがはっきり見えてこない。社会変革を目指しているという見られ方もするが、それは違う。結局のところ、村上氏は単に金儲けの手段として、派手にパフォーマンスを打って、世間の耳目を奪っているだけに過ぎない。
また、興味深いことに、糸山氏は村上氏を「グリーンメーラーは生き残れない」などと批判している。

新しいから排除されているのではない

ホリエモンにせよ、村上ファンドにせよ、今の若い世代は概ね彼らを支持している。若い世代の人間は何時の世も古い体制を敵視する傾向が強いが、ホリエモンや村上ファンドのような志のない連中に傾倒しすぎるのは大いに問題がある。
大体、ものの善悪・正邪を判断するのに新旧という物差しを用いるのは無意味である。新旧と善悪・正邪が結びつくのなら、共産主義という今の自由主義経済よりも新しい考えが地球人類に定着しなかった理由が分からなくなる。しかも、最近は数学者の藤原正彦氏の著書が売れているが、藤原氏の考え方は「武士道」という古い日本的価値観に基づいたものである。ホリエモンや村上ファンドなどから見れば、藤原氏などは旧体制の人間にしか見えないだろう。しかし、その藤原氏の本が大いに売れているのは何故だろうか?よく考えて欲しい。

東洋経済の特集の後半にて

村上ファンドに狙われた企業のその時とその後に関しての記事が載っているが、村上ファンド介入を機に優良企業に変わるという話もある。まるで、仮面ライダーファイズに登場したオルフェノクの「使徒再生」そのものである。そういえば、仮面ライダーファイズにも村上峡児(ローズオルフェノク)という登場人物がいた。この村上峡児によると、オルフェノクが人間を襲うのは正しいことだという。これを村上世彰氏に当て填めると、村上ファンドのようなグリーンメーラーが企業を襲うことは正しいとしているのと同様の考え方である。東映のスタッフは2002年頃から村上ファンドの本質を理解していたのかとさえ勘繰りたくなる。
余談であるが、その村上峡児を演じた村井克行氏は、ニッポン放送株TOB合戦頃に放送された「恋におちたら」というドラマでロイド某とかいう村上ファンドのようなグリーンメーラーのサブリーダー格として出演していたことを付け加えておきたい。尤も、村井氏の出演はフジテレビが相当狙ったものであると考えられる節があるが。

村上ファンドに未来はない

日本において村上ファンドのようなグリーンメーラーの存在が総会屋以上に知られるようになったことから、日本の各企業経営者達はこうしたグリーンメーラーに付け込まれないようにする対策を練り始めた。この動きは単に自分達の既得権益を守るための動きではない。ニッポン放送株TOB合戦の時もフジテレビがライブドアによるニッポン放送株大量取得に関して後手後手に回ったことが批判された。これは日本の企業経営者達が如何にぬるま湯に浸かっていたのかよく分かる話の一端である。他の企業もフジテレビの轍を踏まぬように対策を練るのは当然である。
また、村上ファンドとて、常に勝ち続けていたわけではない。所々において損な取引を強いられていることもあった。しかし、今後、村上ファンドに続くようなグリーンメーラーが続々と登場することは想像に難くない。最後に勝つのはきちんとした志のある人間である。単に世間の耳目を集めるだけのパフォーマーは早晩消えゆく運命にある。また、そのような儚き存在に仮託する連中がいち早く目を覚ましてくれることを祈りたい。
書籍紹介
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月21日

[コラム]小泉改革でヤクザなハウツー本が流行る時代になりました

最近、こんな記事を見つけた

ネットの問題児「dexiosu」関連兼社会問題関連でうちと関係のあったブログ「■ミラクルハウス改め魔城ガッデム■」にて、宮崎学氏の著書「山口組六代目組長・司忍と宰相・小泉純一郎にケンカを学ぶ」を紹介する記事を見つけた。

最近、ヤクザなハウツー本が増えている

小泉改革の成果なのか、これからの世の中は優勝劣敗が明確になる厳格な実力主義に基づく競争社会が到来すると見られている。それに呼応するかの如く、最近の書店ではそういう実力主義社会を生きているヤクザについて書かれた書籍が目立つ。それも、ヤクザの心理術と題したようなヤクザなハウツー本が。尤も、政治家やセールスマンなど、ヤクザ以外の類似書籍もあるが。

以前、向谷匡史氏の書籍をチラリと紹介したことがあった

以前、この記事で、向谷匡史氏の「ヤクザの実戦心理術」という本を紹介したことがあった。向谷氏以外にもこういうヤクザの心理術というか交渉術について書かれたハウツー本は数多くで回っており、作家の安部譲二氏も「「頭のいいワル」だから、人生うまくいく!―世の中のウラと表から学ぶ、成功法則」という書籍を出している。宮崎氏の著書はそうした書籍群の中では後発組に属する。

ネットで叩かれている人は概して「善人」である

よく2ちゃんねるなどで叩かれているような人を私はよく見かけるのだが、こうした連中を見ていると、本質的に正直者が多い。つまり、要領よく世の中を渡っていけない連中である。今の実力主義社会において、そうした正直者にとっては苦境以外の何者でもなく、こうした正直者達がどんどん、ニートというような存在になっている。そういうことを考えると、ニート対策は労働環境の問題ではなく、教育の問題であると考えている。

優等生が社会に出て困惑する

また、この手の「善人」は学生時代は優等生として通っていたような連中である。しかし、人付き合いが下手で碌に友達ができないような暗い連中でもある。それ故、コミュニケーションスキル或いはヒューマンスキルが激しく低く、社会に出たとき、そのコミュニケーション力の低さ故に無能者の烙印が押されるのである。
そういえば、宮崎氏のその著書においても小泉総理自身、学生時代は友達も碌にいないような暗い人だったと書いてあったっけ。それはどうでも良いが。

不良の方がコミュニケーション力が高い

所謂「不良」と言われるような連中はちっちゃな頃から喧嘩ばかりしている。しかし、人間の喧嘩はどんな形であれ、言葉がつきまとう。言葉なき殴り合いの喧嘩というのはないと言っても過言ではないだろう。つまり、喧嘩を通して不良達は他人との意志疎通のやり方を勉強するのである。そういえば、中国の諺に「不打不成相識」というのがある。日本語に訳すと「喧嘩をしなければお互いの考えを理解できない」というものである。喧嘩を全くしなかった優等生より喧嘩に明け暮れた不良の方が社会適応性が高いのも、喧嘩の数を重ねた賜物である。

喧嘩を否定した教育がニートを大量生産した

平和ボケ日本の平和主義者達は喧嘩をすることを否定したがる。いじめに繋がるという考えがあるのだろう。しかし、いじめと喧嘩は全く違う。否、違うどころか、正反対でさえある。暴力が伴うという点では似ているが、いじめは一方的な押しつけであるのに対し、喧嘩は対等に立って戦っている状態だからである。前述のように喧嘩をすることはコミュニケーション能力の涵養に役立つことを考えると、喧嘩を否定する教育は意志の疎通を否定する教育に繋がる。その結果が、自分の一方的な思い込みを相手に押し付けようとする行動、それこそいじめに繋がるのである。

反小泉の急先鋒が明かす小泉圧勝の秘密

宮崎氏の書評に話を戻すと、先の総選挙で小泉自民党の圧勝の原因は小泉総理の喧嘩の強さにあるという。確かに、野党などに比べると、自民党殊、小泉総理の喧嘩の強さは随一である。その喧嘩強さが国民からの支持を取り付けていると言っても過言ではない。実際に根性が座っているかどうかは別として、小泉総理の意志の硬さは他のどの政治家以上である。
だが、いつまでも小泉劇場の幻想に踊らされている場合ではない。しかし、小泉改革が齎した厳格な実力主義社会の到来は不可避である。ならば、喧嘩の達人達から人生訓を学び取り、来るべき未来に備えるべきだろう。

真っ正直に生き、負け犬となって社会の最底辺に甘んじるか、狡猾に且つ要領よく立ち回って勝ち組にはいるか、これからの社会はその2つに1つである。中途半端な連中はどんどん淘汰されなくては、成熟した社会など夢物語でしかない。
書籍紹介
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 14:47| Comment(10) | TrackBack(3) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月15日

[コラム]オタクとキモオタの違いとは?

「オタク」の概念が目まぐるしく変わった

今でも、鉄道マニアの一部では「オタク」に対する抵抗感があるものの、「電車男」などの影響で「オタク」というものが社会に受け入れられてきている。オタクのシンボルとも言える所謂「萌え」すら日本文化の一部になりつつある状態である。
しかし、嘗て「オタク」と言えば「キモい」というのが一般社会のコンセンサスであった。そして、オタクがメジャーになった今でさえ、そうしたキモいオタク即ち「キモオタ」というものは健在である。以下、ITmediaの記事を参考に「キモオタ」の考察をしてみる。

旧来「マニア」と呼ばれていたものが「オタク」に摩り替わった?

ITmediaの記事では「スレッショルドが下がっただけ」と見ている。そういう面もあるが、それだけなら、「オタク」というものを指す範疇が広がっただけで、「萌え」関連の流行は説明できない。寧ろ、それまで日陰に隠れていた「アキバ系」の文化もまた、「電車男」に乗っかって広まり、「オタク」がより一層一般化した面を見逃すことになる。
実際、それまで「萌え」とは縁のなかった長寿のロボットモノのコンテンツにも続々と萌えキャラが侵攻してきている。その一例がトランスフォーマーシリーズの「バイナルテック・アスタリスク」である。
また、学術系の書籍でさえ、「萌え」を取り込んだようなものが出現している。
これまで、「キモい」として日陰に追いやられてきたものがどんどん表に侵略活動を繰り広げているのは、オタクの概念のスレッショルドが下がっただけでは説明不可能な現象である。

キモオタを自称する人はいない?

実はこの間まで政治関係で諍っていた人がいるのだが、この人は時折「キモオタ」を謙遜的意味合いで自称している。しかし、ITmediaの記事では「社会との接点があり、その基準から外れた言動をする」人を「キモオタ」と定義しているので、その人の謙遜的自称の「キモオタ」とは意味合いが異なる。
因みに、彼の者の場合、「その基準から外れた言動」という脱社会的なものではない。強いて言えば「天邪鬼」と呼ばれるタイプであり、ITmediaの記事で言うところの「キモオタ」とは別物である。

キモオタとは現実と仮想の切り替えの利かない人である

一言で「キモオタ」といっても様々だが、80年代的「オタク」と同じ意味合いの「キモオタ」は現実と仮想の切り替えの利かない人を指す。タレントがロケで街に出ると、まるで知り合いのように話し掛けてくるオバサンもこの一種かもしれないし、ジョン・レノンを殺害した人もこの手合いの者だったかもしれない。

ネットは妄言し放題の場所か?

ITmediaの記事では、メディアの発達によって、デフォルメされたイメージ(虚像)を実在する人にダイレクトにぶつける現象についてキモオタの行動として取り上げられている。私の知っている人というより観察対象に「dexiosu」なるハンドルネームで2ちゃんねるに書き込んでいたりする人がいるのだが、彼の者は、ネット普及以前から己の持つイメージ(虚像)をそのまま対象となる相手などに押し付ける行動を繰り返してきた。これこそまさに、「『公』に対して『私』のままで投げつけたり、実像に対して虚像で投げつけたり」する行為である。しかも、「dexiosu」なる者の場合、己の持つ虚像こそが実像であると論破されても言い張るのだから、始末が悪い。
この「dexiosu」なる者こそ80年代的意味合いでの「オタク」であり、ITmedia記事中でいうところの「キモオタ」の典型である。
余談
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 14:37| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

[コラム]ニートにも色々ある

ニートとは

「ニート(NEET)」とは「Not in Employment, Education or Training」つまり「働かず、学ばず、訓練せず」という意味の英語の頭文字を並べた呼称である。メディアでは若者ばかりが取り上げられがちで、厚生労働省の労働経済白書(2005年版)でも「年齢15〜34歳の非労働力人口(仕事と求職活動をしていない人)のうち,家事も通学もしていない者」と定義・集計している。
が、実際には35歳以上でも似たような人がいる(例:「dexiosu」というハンドルネームのネットワーカー)。ブログの中ではこうした人への対策も必要だと訴える人もいるが、ここでは厚生労働省の定義するニートを前提にする。

ニートには4つの種類がある

一言でニートと言っても色々あるが、大まかに4つのパターンに分けられる。
  1. ヤンキー型
     反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ
  2. ひきこもり型
     社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ
  3. 立ちすくみ型
     就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ
  4. つまずき型
     いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプ
それぞれがそれぞれの事情でニートになったというものである。以下、これらの類型別に対策を考えてみたい。

ヤンキー型の場合

「ヤンキー」というと、学校の不良生徒とかそういうのを思い浮かべがちであるが、必ずしも不良とは限らない。そもそも、今の日本国民自体享楽的な傾向が見られ、享楽的という見地においては「ヤンキー」を咎められる立場ではない。
ただ、そうした享楽的な一般国民以上に「ヤンキー」の場合は飽きっぽく、途中で投げ出す傾向性が見られ、また、反社会的であることから屡々犯罪にも手を染める。本人の中にある自分への甘えを解消しない限り、対処が難しい厄介なニートである。
こうした「ヤンキー」になるきっかけは色々あるが、甘やかす親よりも厳格な親の方が却ってこのタイプを作りやすい。子供を躾けると称して、虐待に近いようなことを平気ですると、親への反発を覚え、「ヤンキー」になってしまう。優しさや愛情を知らないため、攻撃的で外罰的な性格となるためである。ヤクザの親分クラスの人は厳しい親に育てられたという人が多い。
「ヤンキー」の場合、ある意味厳しさに対しては耐性がある。だから、根気さえ身につけさせれば、それなりに大成する可能性がある(悪い事例だが、ヤクザの親分クラスは「部屋住み」でそうした修行をして「ヤンキー」から脱皮した人が多い)。
このタイプのニートの場合、社会常識と根気を身につけさせるのがニート脱出の鍵となるだろう。

ひきこもり型の場合

前述の「ヤンキー」とは対照的にこちらは大人しくて真面目なタイプに多い。内気で自己表現が下手で人間関係を築くのが大の苦手というタイプである。「ヤンキー」の場合、攻撃的な性格故に前へ前へ進む勇気はある程度身につけているが、「ひきこもり」の場合、臆病で前進する勇気がない。これは後述の「立ちすくみ」や「つまずき」にも言えるが。
「ひきこもり」の場合、家庭や学校で虐められてきた人が多い。そのため、周囲に対して不必要に警戒し、自分の殻に閉じこもってしまいがちである。それ故、生半可な説得では却って不信感が募るだけである。
今のネット社会において、「ひきこもり」は意外なくらい知識を蓄積していることも少なくない。「オタク」となっているケースである。そのため、専門知識を深めている或いは見聞を広く持っていることも少なくない。後は、それを社会に生かせる場を設けてやれば良い。
このタイプのニートの場合、チームでの作業に参加させ、なるたけ、認めてあげるようにすることが肝要である。意外と「目立ちたがり」な人たちだったりするからである。

立ちすくみ型の場合

臆病なのは「ひきこもり」とよく似ているが、「ひきこもり」はいつも臆病であるのに対し、「立ちすくみ」は特定の局面にだけ臆病になるタイプである。その特定の局面が就職活動となった場合、ニートとなる危険性がある。
「立ちすくみ」の場合、慎重な性格の人が多い。後先を考えない破滅型の「ヤンキー」とは対照的である。型に嵌められたような生活に親しみ、未知の分野になかなか手を出さない。好奇心のないタイプといえる。そのため、就職活動において立ちすくんでしまう。
このタイプを生み出す親もまた、安全な道を進ませるように教育していて、道を外れることを極度に嫌う、先例主義で横並び主義の志向がある。
しかし、価値観の多様化した現代社会において、このような先例主義や横並び主義はおちこぼれを作る要因にさえなってしまっている。時代適応性に乏しいとも言える。
このタイプのニートの場合、「夢」を持っていないので、適性を見出すことが難しい。特定の志向がないということは逆に、何色にでも染まる可能性があるので、とりあえず何かをやらせるしかなさそうである。但し、価値観の多様さは学ばせる必要がある。そうでないと、後述の「つまずき」になってしまう危険性があるからである。

つまずき型の場合

「立ちすくみ」と同じく、特定の局面で臆病になるタイプであるが、「立ちすくみ」は未来の経験に対する臆病さに対し、「つまずき」は過去の経験から得た臆病さで違いが出ている。
また、「ヤンキー」や「ひきこもり」、「立ちすくみ」の場合は子供の頃からの教育環境が影響しているが、「つまずき」の場合はどんな教育環境で育てられたかには余り依存しない。過去の経験からの影響とはいえ、積み重ねられた過去より、過去の特定の経験が起因しているからである。但し、その過去の特定の経験から立ち直れるかどうかの要素には育てられ方も影響しているが。
このタイプのニートの場合、如何に過去のトラウマから解放させるかが鍵である。下手に刺激すると「ヤンキー」や「ひきこもり」に転化する虞もある。どういうプロセスを経て失敗したのかを客観的に見詰め直して、失敗経験の棚卸しを行わせる他ないだろう。

どのタイプにも言えること

4つの類型別に見てみたが、4つの類型とも、とどのつまり「自分への甘え」が原因している。
また、教育環境に関しても1つの典型的な事例を挙げたが、他にも色々な要因が複雑に絡んでいることも考えられうる(例えば、先例・横並び主義の教育環境に反発を覚えて「ヤンキー」になるとか)。また、同じような教育環境にありながら、一人はニートになるのに対し、もう一人はニートにならないというようなケースもある。こうしたことから、結局は本人の資質に帰結してしまうのだろう。
杉村太蔵議員がこうしたニート対策のスペシャリストを目指しているというが、政府がどんなに頑張っても、個人の心の問題には踏み込めない。結局は、本人の努力に期待するしかないのだろう。
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 11:31| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月12日

[コラム]白票と棄権は同じ意味

法定得票数に関して調べているとき

興味深い記事を見つけた。「白票と棄権票は同じ」というタイトルである。
よく気に入った候補者がいなければ白票を投ずるべしと言っている人がいるが、これはとんでもない間違いであるということである。

白票と棄権の違い

白票つまり無効票を投ずることと棄権することの大きな違いはどこに出るかというと、投票率に出てくる。
投票率は政治への関心のバロメータとして見られるが、選挙のシステム上においては殆ど意味がない。何故なら、現在の公職選挙法では最低投票率が定められておらず、極端な話、1人しか投票しなくても、その選挙は有効と扱われてしまうのである。

当選の最低ラインは投票率ではなく有効投票数で算定される

法定得票数とは、当選資格を得るために必要な最低の票数のことであるが、その算定の根拠は投票率ではなく有効投票数である。
前述のように、白票と棄権の違いは投票率に出てくるのだが、有効投票率の観点からすると、白票も棄権も意味としては同じである。何故なら、公職選挙法第68条で無効投票は以下のように定められているからである。
第68条 衆議院(比例代表選出)議員又は参議院(比例代表選出)議員の選挙以外の選挙の投票については、次の各号のいずれかに該当するものは、無効とする。
1.所定の用紙を用いないもの
2.公職の候補者でない者又は第86条の8第1項、第87条第1項若しくは第2項、第87条の2、第88条、第251条の2若しくは第251条の3の規定により公職の候補者となることができない者の氏名を記載したもの
3.第86条第1項若しくは第8項の規定による届出をした政党その他の政治団体で同条第1項各号のいずれにも該当していなかつたものの当該届出に係る候補者、同条第9項後段の規定による届出に係る候補者又は第87条第3項の規定に違反してされた届出に係る候補者の氏名を記載したもの
4.一投票中に2人以上の公職の候補者の氏名を記載したもの
5.被選挙権のない公職の候補者の氏名を記載したもの
6.公職の候補者の氏名のほか、他事を記載したもの。ただし、職業、身分、住所又は敬称の類を記入したものは、この限りでない。
7.公職の候補者の氏名を自書しないもの
8.公職の候補者の何人を記載したかを確認し難いもの
2 衆議院(比例代表選出)議員の選挙の投票については、次の各号のいずれかに該当するものは、無効とする。
1.所定の用紙を用いないもの
2.衆議院名簿届出政党等以外の政党その他の政治団体(第86条の2第10項の規定による届出をした政党その他の政治団体を含む。)の名称又は略称を記載したもの
3.第86条の2第1項の規定による届出をした政党その他の政治団体で同項各号のいずれにも該当していなかつたもの又は第87条第5項の規定に違反して第86条の2第1項の衆議院名簿を重ねて届け出ている政党その他の政治団体の名称又は略称を記載したもの
4.第86条の2第1項の衆議院名簿登載者の全員につき、同条第7項各号に規定する事由が生じており又は同項後段の規定による届出がされている場合の当該衆議院名簿に係る政党その他の政治団体の名称又は略称を記載したもの
5.一投票中に2以上の衆議院名簿届出政党等の第86条の2第1項の規定による届出に係る名称又は略称を記載したもの
6.衆議院名簿届出政党等の第86条の2第1項の規定による届出に係る名称及び略称のほか、他事を記載したもの。ただし、本部の所在地、代表者の氏名又は敬称の類を記入したものは、この限りでない。
7.衆議院名簿届出政党等の第86条の2第1項の規定による届出に係る名称又は略称を自書しないもの
8.衆議院名簿届出政党等のいずれを記載したかを確認し難いもの
3 参議院(比例代表選出)議員の選挙の投票については、次の各号のいずれかに該当するものは、無効とする。
1.所定の用紙を用いないもの
2.公職の候補者たる参議院名簿登載者でない者、第86条の3第2項において準用する第86条の2第7項後段の規定による届出に係る参議院名簿登載者若しくは第86条の8第1項、第87条第1項若しくは同条第6項において準用する同条第4項、第88条、第251条の2若しくは第251条の3の規定により公職の候補者となることができない参議院名簿登載者の氏名を記載したもの又は参議院名簿届出政党等以外の政党その他の政治団体の名称若しくは略称を記載したもの。ただし、代表者の氏名の類を記入したもので第8号ただし書に該当する場合は、この限りでない。
3.第86条の3第1項の規定による届出をした政党その他の政治団体で同項各号のいずれにも該当していなかつたもの若しくは同条第2項において準用する第86条の2第10項の規定による届出をしたもの又は第87条第6項において準用する同条第5項の規定に違反して第86条の3第1項の参議院名簿を重ねて届け出ている政党その他の政治団体の同項の規定による届出に係る参議院名簿登載者の氏名又はその届出に係る名称若しくは略称を記載したもの
4.参議院名簿登載者の全員につき、第86条の3第2項において準用する第86条の2第7項各号に規定する事由が生じており又は第86条の3第2項において準用する第86条の2第7項後段の規定による届出がされている場合の当該参議院名簿に係る政党その他の政治団体の名称又は略称を記載したもの
5.一投票中に2人以上の参議院名簿登載者の氏名又は2以上の参議院名簿届出政党等の第86条の3第1項の規定による届出に係る名称若しくは略称を記載したもの
6.一投票中に1人の参議院名簿登載者の氏名及び当該参議院名簿登載者に係る参議院名簿届出政党等以外の参議院名簿届出政党等の第86条の3第1項の規定による届出に係る名称又は略称を記載したもの
7.被選挙権のない参議院名簿登載者の氏名を記載したもの
8.公職の候補者たる参議院名簿登載者の氏名又は参議院名簿届出政党等の第86条の3第1項の規定による届出に係る名称及び略称のほか、他事を記載したもの。ただし、公職の候補者たる参議院名簿登載者の氏名の記載のある投票については当該参議院名簿登載者に係る参議院名簿届出政党等の同項の規定による届出に係る名称若しくは略称又は職業、身分、住所若しくは敬称の類を、参議院名簿登載者の氏名の記載のない投票で参議院名簿届出政党等の同項の規定による届出に係る名称又は略称を記載したものについては本部の所在地、代表者の氏名又は敬称の類を記入したものは、この限りでない。
9.公職の候補者たる参議院名簿登載者の氏名又は参議院名簿届出政党等の第86条の3第1項の規定による届出に係る名称若しくは略称を自書しないもの
10.公職の候補者たる参議院名簿登載者の何人又は参議院名簿届出政党等のいずれを記載したかを確認し難いもの
引用が長くなってしまったが、要するに衆議院でも参議院でも候補者名(衆議院比例代表は政党名、参議院比例代表は候補者名又は政党名)を正しく記入していない票は無効と扱われてしまうということである。白票の場合は各項の最後の2つ「自書していないもの」と「記載が確認し難いもの」に該当すると思われる。法定得票率がこうした無効投票を除いた有効投票数ベースで計算されている以上、白票も棄権も意味としては同じということになってしまう。

白票と棄権は与党に優しく野党に厳しい

冒頭で紹介した記事に白票を投じることで全ての政党・立候補者に警告を与えるという考えが間違いであることが詳細に書かれているのでそれを参照して戴きたい。
そういえば、森喜朗元総理は「有権者は寝ていてくれた方がいい」という発言をしていた。これは何を意味するのだろうか。
得票率を上げるには、分子(支持者の数)を多くするのと分母(有効投票数)を小さくするという2つの方法がある。特に、組織票を持っている候補者の場合、支持者は一定数が保証されるので、有効投票数を小さくすることによって、得票率を上げることが可能になる。つまり、白票や棄権は強い組織票を持つ候補者に強いという訳である。そうなると、一般庶民より特定の組織に味方する代表者が政治家として選ばれてしまう。これでは一般庶民の声が政治に届かなくなってしまう。

白票と不買運動の違い

不買運動は企業にとって売上減少という形で実の部分でダメージが与えられ、企業に対してインパクトを与えることができる。しかし、選挙において白票を投じることによって、政治家の給料が下がることもないし、何より、前述のように当選か落選かを決めるのが投票率ではなく有効投票数であること勘案すると、得票率の分母が小さくなるだけで、却って強い組織票を持つ候補者を有利にしてしまう。これでは、所期の効果が得られるどころか逆効果でしかない。
やはり、有効投票数を下げるような投票は意味がない。そんなのは棄権したのと同じである。ならば、自分が政策を掲げて立候補するか、より自分の考えに近い候補者に投票するのが民意を政治に反映させる上において重要になるだろう。
追記
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月22日

[コラム]政治は国民生活の延長線上にあるもの

ここ最近

郵政民営化法案が参議院で否決され、小泉総理が衆議院を解散させて以来、政治に関する話題で溢れている。公示が始まってしまうと、選挙絡みのニュースが制限されてしまうので、今のうちにマスコミも煽るだけ煽っているようだ。
そのお陰で、政治に対する関心も高まっているのだが、問題は山積である。

政治が良くならないのは政治家が悪いのではなく、有権者の怠慢が原因

私は政治をエンターテイメントとして捉える輩を窘めている。私が政治をエンターテイメントとして捉える輩に対して付けたレスと同じことが「普通でない普段 Unusualness of Usual Days」というブログで書かれており、我が意を得たりと思っている。
政治が良くならない原因は、政治家の資質よりも、そうした資質の低い政治家を選ぶ国民にあると思う(その他、官僚のコンピタンシーの低さも原因となっている)。選挙には行かないが政策には文句をつけるとなると最早最低な野次馬でしかない。
悪政を駆逐するもしないも有権者一人一人の双肩に掛かっているのだが、その自覚が余りに足りない。

マスコミというアジテーター

国民の政治への無関心(というより無責任)な姿勢は情報を伝達することを忘れ、ムーブメントを起こさんと企むマスコミの煽動が主な原因だと思える。
時として、政治への関心を煽り、世論を喚起するが、今の日本国民は兎角飽きやすい。余りにアジテーションが続くと逆に関心が薄くなる。
こうしたサイクルを熟知しているマスコミはそうした性質を悪用して、日本の政治を壟断し混乱させている。その方が、マスコミとしては自分の発信した「情報」が売れるからである。つまり、マスコミの金儲けのための煽動ということである。そのためには国政を滅茶苦茶にすることも厭わない。マスコミが政界を引っ掻き回した実績は小泉総理の比ではない。「守銭奴」ホリエモンも裸足で逃げ出すような拝金主義思想がマスコミ界に蔓延っている。

大切なのは確固たる自分を持つこと

兎角、日本人は個人主義であることを嫌う。しかし、今の世の中は趣味・嗜好だけを取り上げれば、個人主義である。日本人の持つ構造的矛盾が政治制度の矛盾を引き立たせている。
今までの集団主義のメリット(集団への責任転嫁)が忘れられないまま、個人主義となったツケが回ってきたという状態である。我が儘で無責任な国民の構造矛盾を解決しない限り、この国の政治は良くならない。
政治が良くなるということは自分たちの生活の向上にも繋がる。日本国の参政者は全ての有権者である。有権者一人一人の意識改革が真の政治改革へと繋がることを忘れてはならない。
他者への依存の前にまずは自分の足で立つことから始めなくてはいけない。
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 15:28| Comment(0) | TrackBack(3) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月17日

[コラム]続・憶測で厳しくコメントするサディストの国、日本

前回の続き

木村剛氏のブログで西武鉄道再建問題の記事が掲載されたが、その中で、「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」の問題を取り上げた。
前回は、総選挙に出馬することを決めた鈴木宗男・辻元清美・松浪健四郎の3名を「犯罪者」呼ばわりすることに対する批判と、私の観察対象であるdexiosu森本浩司氏及びその被害者でありながら、安倍晋三氏などを私の再三の注意にもかかわらず謗り続ける土方綺麗氏への批判であったが、今回は政治家等の要職にある人の発言の問題とコミケで起きたある事件を取り上げたい。

人の上に立つ人間は須らくして言葉を慎むべし

古い話ばかりになるが、鳥取県知事が東芝を非難したり、検察幹部がマスコミをヤクザ呼ばわりしたり、石原都知事も色々問題発言をしていた。これらは一般庶民レベルなら世間への不平不満というか愚痴というレベルで終わる話だが、何れも要職にある者であるため、ニュースとなった話である。
鳥取県知事の東芝非難や検察幹部のマスコミをヤクザ呼ばわりした件は発言内容を斟酌して「常識ある発言」と評価する向きもあったが(私の場合、検察幹部の方に限り、その発言内容は納得がいくものであったと評価した)、やはり立場上一般庶民レベルで許されるような「愚痴」を公の場で述べることにはその発言者の人間性を疑わざるを得ない。
昔、渡辺美智雄という政治家がいた。渡辺氏は本音の政治家として一定の評価を得ていたが、およそ総理大臣の器ではなかったという。理由は本音を出し過ぎるためだったと言われている。
それを考えると、人の上に立つものは「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」であってはならないということである。特に要職にある者の発言は一般庶民のそれより重く受け取られる傾向にある。それ故、人の上に立つものは須らくして言葉を慎むべきなのである。言葉を慎むということは相手の気持ちを慮るということに他ならない。リーダーがリーダーであるためには大胆な行動力と慎重な配慮の両輪あってこそということだろう。

ホットドッグの売り子のブログが大問題

先日、コミックマーケット(通称コミケ)が開催されたが、ここでホットドッグの売り子が並んでいる客(コミケに参加しているオタク達)を写真に撮った上、仕事中に自らのブログに晒すと言う暴挙に出たことが話題になった。これは仕事中に私用でネットを利用したりするなどの問題も含まれるが、このコラムの主題が「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」の問題であるので、これに合わせた問題点を取り上げる。
2ちゃんねるでは「オタク対アンチオタク」という超古典的テーマの不毛な罵り合いばかりだったようであったが、これもまた「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」の問題であると私は考える。
前述の政治家等の発言の問題もそうだが、相手の気持ちを配慮しない言動は様々な問題を引き起こすものである。それ故、言葉を慎むことは要職者以外でも重要なこととなる。
ましてや、今の世の中、インターネットで世界中に情報発信できるのだから、誰もが嘗て無い強烈な発言力を得ているようなものである。しかも、文字媒体であるから記録にも残る。それに対する自覚の無さが今回の事件を引き起こしたのだろう。
そのホットドッグ売りはコミケ参加者(≒オタク)を殆ど自らのバイアスを以って「憶測で厳しくコメント」したのである。この罪は決して軽くない。それに対するオタクたちの反応も「憶測で厳しくコメント」したようなものが決して少なくないのは2ちゃんねるでの不毛な罵りあいがあったことから予想できる。そういう意味を考えると、どちらの側も「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」であろう。

dozre氏のブログのコメントより

#104氏が以下のように述べている。
blogって物がどういう物なのか?身内限定のつもりがどこでどう晒されるか判らないし、そんな場所で個人を特定できる情報を書いてしまううかつさとか、なんかもう「やっちゃった・・・」感が沸いてきますね。。。バイト中に携帯で写真撮ってる時点ですでにこの女も充分アレなんですけどね、公私混同もいい所だし、質の低いバイトのせいで大変な事になりましたね。こんな連中にblogやインターネットを使わせたら会社としてもそりゃ顧客情報は盗まれるわ、会社のマシンでP2Pやるわ、社外秘の情報は持ち出されるわ、客の悪口は書かれるわで最悪としか言い様が無いですね。
ブログはインターネット時代の個人向け情報発信ツールと言われているが、今回の事件は使い方を間違えると致命傷になるという端的なエピソードである。仲間内限定の世間話レベルでブログを書いている或いはホームページを作っているとなれば、嘆かわしい話である。
全世界に自らの持つ「情報」を開陳している以上、如何なる批評に堪え得るものでなくてはいけない。そういうことを考えると、ブロガーは「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」であってはならないのである。
匿名で好き勝手書ける「便所の落書き」感覚でブログをやっている人ほど、コメントやトラックバックに対する規制が無意味に強い。これもまた「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」特有の自分勝手な何かがある証拠だろう。
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 12:29| Comment(2) | TrackBack(5) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月16日

[コラム]憶測で厳しくコメントするサディストの国、日本

木村剛氏のブログの記事を見て

西武鉄道再建問題についてのコラムだが、木村氏は8月10日の持ち株会社方式の再建案を評価している。
(それに対して、M&Aコンサルティングは疑義を唱えている。)
但し、今回は西武鉄道再建問題に関する話をする訳ではない。表題にある「憶測で厳しくコメントするサディスト」の問題を取り上げたい。

後藤社長に対する心外な批判が絶えない

木村氏は続けて、西武鉄道に対する「心ない誹謗中傷」を取り上げている。例えば、
コクドとプリンスが債務超過なので、持株会社方式を採用する
だが、後藤氏はこう反論している。
全く事実と異なる。両社は実質的には資産超過会社であり、極めて遺憾だ
屡々、報道は真実を伝えないということの端的な事例だが、真実を見極める目を持たないとマスコミの「過ち」に気が付かずに踊らされることになりかねない。しかも、この「過ち」は屡々、意図的ではないことも多いから恐ろしい。
その他、後藤氏の出身母体との関係から「後藤は銀行から送り込まれた管財人だ」「西武グループは実質的に銀行管理状態にある」などという事情通のコメントもさも真実であるかの如く流されている。当然、後藤氏は反論するが、その反論はなかなか表に出てこない。

簡単に犯罪者呼ばわりする輩がいる

これは何も、西武グループ再建に限った話ではない。例えば、今の政治のことだってそう。私は鈴木宗男・辻元清美・松浪健四郎らの立候補を批判する記事を書いたが、他のブログのように彼らを「犯罪者」呼ばわりはしていない。否定的ではあっても、決して蔑むような或いは悪意に満ちた記事は書いていない。
しかし、他のブログを見ると彼らを「犯罪者」呼ばわりして、木村氏の言うところの「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」となっている連中が多くて嘆かわしい。こういうのもマスコミの多く売れるのみを目的とした針小棒大記事を真に受けた結果だとしたら、更に嘆かわしい。

観察対象にも

私はdexiosu森本浩司というある方面で有名なネットワーカーを観察している。彼は今、彼が中傷誹謗した相手から訴えられようとしている身だと言われているが、この者もまた、「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」の一員だ。但し、dexiosu森本浩司氏の「中傷誹謗」は彼の社会性の低さ及びコミュニケーション能力の低さから的外れなものが多く、彼にストーカーされたCLAMPやしつこくされたコミケ関連ぐらいからしか、法的措置を検討した者がいなかった。
また、このdexiosu森本浩司氏に不当に謗られた土方綺麗氏もまた「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」の一員だ。これは主に政治問題を取り上げた書き込みで見られる。今の土方氏のブログは殆どが仕事の愚痴で湿っぽい内容だが、以前のものは特定の政治家や脚本家などへの中傷誹謗に満ちた今よりもずっと湿っぽい内容のものだった。書き手の陰湿さが滲み出ていてdexiosu森本浩司氏とは違った意味でおぞましい。

大切なのは本質を見極める鑑識眼

「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」は自分の考えの殻に閉じこもってしまっているような輩が少なくない。権力に逆らえばそれが正義だと信じて疑わないような所謂「サヨ」などがそれに当たる。
大切なのは、物事の本質を見極める鑑識眼だ。考えることを疎かにし、脊髄反射であれこれ言うから「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」になってしまう。
考える習慣を持たない人間は己のフィーリングだけで物事を決めて掛かってしまう。確かに、好き嫌いはあるが、それにしてもこの国の人間は余りに尊大で勝手が過ぎる。それと同様に、反日運動繰り広げている隣国の連中も「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」の仲間である。

こういう「憶測で厳しくコメントすればいいというサディスト」がいる限り、恒久平和は訪れないのだろうな。
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 16:06| Comment(2) | TrackBack(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月08日

[素朴な疑問]鉄道オタクとアキバ系オタクを兼ねる人たち

何故かアキバ系と鉄道マニアの兼任者が多い

私はハンドルネームから分かる通り、鉄道マニアと特撮マニアを兼任している者だが、ネット上を見てみると鉄道マニア兼アキバ系オタクという者の存在が目立つ。
他の乗り物(車、バイク、自転車、飛行機、船etc.)の趣味者に比べて、何故か鉄道マニアはアキバ系比率が高い。不思議である。
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 10:01| Comment(0) | TrackBack(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月25日

[コラム]プライドと礼儀

呉儀副首相の非礼が話題になっている

中国に「大人の対応」を求める声が聞こえるが、中国にとっての「大人の対応」と日本にとっての「大人の対応」とはまるで違う。
中国の「大人の対応」とはプライドを認めることが前提であるのに対し、日本の「大人の対応」はプライドを否定することが前提であるからだ。

プライドの低い国民性が談合体質を助長している

最近、橋梁工事の談合が発覚したが、こういう談合体質は日本人のプライド否定の価値観によって強く支えられていることを指摘する声は聞こえない。表ばかりの現象を追ってその場凌ぎの批判ばかりで嘆かわしい。この日本人の浅はかさをまず、改めるべきだと私は考える。

非礼に非礼で返すのも礼儀のうち

うちのブログに最近まで、dexiosuと名乗る無礼者が自分勝手なコメントばかりつけて、私を悩ませていた。このdexiosuと名乗る無礼者はうち以外のブログにも自分勝手なコメントばかり打って、コメントスパマーの称号を受けている。
しかし、dexiosu本人は自分のブログ(nectaful)のコメント・トラックバックを解放せず、一方通行で且つお仕着せがましい態度を貫いている。他人からの干渉を嫌っているのだが、他人への干渉は好んでやっている。とんでもないダブルスタンダードであり、極めて無礼且つ非礼である。
そこで、私もこのような無礼者に対し、コメント禁止の措置を講じたのである。非礼に非礼で返すのも礼儀であるからだ。dexiosu観察者のブログにおいてこのような措置を施したのは極めて異例であるが、これもdexiosu自身の非礼さが所以なので、当然のものと考えている。

プライドの高い奴はプライドを傷つけられることを嫌う

私が思うに、日中関係改善の鍵はプライドにあると思う。
プライドの高さを是とする中国に対し、プライドの低さを是とする日本。プライドに関する態度が両者の溝を作っていると考えてもよかろう。
歴史認識の問題より、プライド認識のことこそ問題視するべきではなかろうか。
プライドの高い奴は自分のプライドを傷つける奴を人間と見なさない。一方、プライドの低い奴は無意識のうちに相手のプライドを傷つける習性がある。
今回の件は中国も日本も共に非礼であると私は考える。
日本人はいい加減、プライドの低さを是とする考え方に疑問を持ってもらいたい。国際的に見て、プライドの低さを是とする考えより、プライドの高さを是とする考えの方が主流だからだ。
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 10:26| Comment(0) | TrackBack(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月10日

[コラム]告発のリスク

とあるブログで

こういう記事が書かれている。何でも、自分の発言は「中傷誹謗」ではなく「公正な論評の法理」だという。
だが、この筆者は如何にも傲慢で他人を見下した態度であることが「公正な論評の法理」云々とは関係なく目に付く。自分の正当性ばかり主張し、悪いのは自分の反対者だという攻撃性を前面に出しては他人の反感を買う一方だ。

マスコミのJRバッシングと中国の反日運動の共通点

告発する側は感情的になっていることが少なくない。そのため、異常なまでに相手を扱き下ろす。
例えば、尼崎の事故以来、マスコミは執拗にJR西日本を叩いている。事故を起こす原因となる日勤教育だとか、ラッシュ時の停車時間15秒の「最速ダイヤ」などはJRに起因するが、事故当日のボーリングの件まで論うのは明らかに異常である。こういうのも「感情」が暴走した「告発」の悪しき事例だろう。こういうことをしている瞬間、マスコミは「自分酔い」している状態であることは間違いない。過熱化した中国の反日運動のように。

告発に訴訟は付き物

告発者は檄を飛ばすために、過激な表現を好んで用いるケースが少なくない。内容が否定的であるだけに、そうした過激な表現は読者の感情を煽り、絶大な効果が生まれると考えられるからだ。
しかし、告発は元々内容が否定的であるが故に、火に油を注ぐような表現は不必要な騒動を起こしかねない。ましてや、自己正当化ばかりする告発者はその人自身の発現の信頼性を大きく傷つけることになる。告発における自己正当化は自殺行為に等しい。
表現が「穏便」であっても、内容の詳細を巡って、被告発者との間の揉め事は絶対に避けられない。訴訟になることも日常茶飯事だ。そうしたリスクを理解せずに自分の意見をゴリ押しするのは第三者から見た告発者の評価を下げる要因となる。

告発は表現に気を配るもの

告発をする以上、被告発者と敵対することは避けられない。そのため、被告発者からの反発は頭に入れているはずである。しかし、告発の正当性を主張するのなら、被告発者ではなく、第三者から見た評価を考えに入れて行動するべきである。
「正論」を幾ら振りかざしても、敵ばかり増えるような告発者は第三者からの視点が完全に欠落している。この手の告発者は言葉を選ばない。感情が先行する余り攻撃的な態度となって、自分を批判する者全てを被告発者の回し者などと言い出すようになったら、もはや病気だと考えた方が良い。
言葉の表現の仕方によって、同じ内容でも素直に受け入れられることもあれば、反発されることもある。内容の正しさではなく、表現の正しさを以って人は人の発言の正当性をチェックするということを心掛けたい。
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月09日

[コラム]交渉と勝敗

興味深い記事を見つけた

アイスピック氏のブログで興味深い記事を見つけた。明らかに私のこの記事を意識したものとしか言いようがないが。

勝つことに拘る

言論って勝たなきゃならない動機を持ってる人間が論を語るからこそ意味があるのであって、2ちゃんねらーのように言論のテクニック使ったり、弁護士の言うように法律を先行させて、話の勝敗を決めるのはナンセンスだし。かと言って最初から妥協点を探すのも変という気がする。
相変わらず、勝敗に拘るが、あえて勝敗に拘るのなら、相手を揺さぶり、そして、時には相手の挑発に乗った振りをして自分のペースで交渉するというのが、交渉の勝利であり、言論の勝利なのである。「交渉人 真下正義」の話になるが、真下は犯人と交渉を行っている。一見話の通じないような犯人ではあるが、真下はその挑発を逆手に取ったりして犯人を追い詰めていく。まさに、これこそ交渉である。
それに対し、アイスピック氏のように上から見下したような態度で自分の言い分だけを一方的に押し付けるのは、交渉ではないし言論ではない。そういう一方的な態度に反発を覚えるのは、人として極めて自然な感情である。それが分からない人は社会性がないとしか言いようがない。

自分の意見を通すために相手の意を汲む

向谷匡史氏の著書に「ヤクザの実践心理術」などがある。裏社会に生きる人間は日々是決戦の状態で、言葉の駆け引き(つまり交渉)一つ取ったって命懸けだ。当然、彼らは「勝つための言論」を行っている。勝つためには時として相手の言い分を認めることもある。そうすることによって、相手の譲歩を引き出し、自分の意見を通す機会を作っているのだ。当然、「言論のテクニック」などを使うことだってある。
頭の固いアイスピック氏ような人の場合、こういうテクニックがとても苦手だ。相手の言い分をねじ伏せることしか出来ない頑迷さでは、「言論での勝利」を得ることは到底難しい。そうなると結局、強引な手法に訴えるしか方法がなく、多方面に迷惑を掛けることになる。

人間誰しも「勝つための言論」をしている

「言論って勝たなきゃならない動機を持ってる人間が論を語るからこそ意味がある」とアイスピック氏は言っているが、人間誰しも、「勝たなきゃならない動機持って」、「論を語る」のである。会社の打ち合わせ一つ取っても、「勝たなきゃならない動機」が各々にあり、合意点を探るものである。「言論のテクニック」や「法律を先行させる」ことだってありうる。アイスピック氏のように自分勝手な意見をゴリ押しすることが、論を語ることではない。
posted by 須藤雅史@多摩急行電鉄 at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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